Notalune

ヘ音記号はなぜ読みにくいのか

ヘ音記号が難しいのは、同じ五線の同じ場所が、ト音記号のときとは別の音を指すからです。右手だけなら、その一段はもう通ります。二回続けて、つっかえずに。そこへ左手を足すと、二小節目の音符ひとつで、すべてが止まります。加線もついていない、五線のなかのふつうの音符です。気がつくと指をページに当てて、いちばん下の線から数え上げています。習いはじめた週と、そっくり同じやり方で。

記号の問題ではなく、干渉の問題

五線そのものは変わりません。五本の線と四つの間、そのまま。変わるのは、どの場所がどの名前かという対応だけです。下から二本目の線は、ト音記号ならソ、ヘ音記号ならシ。ヘ音記号が自分で名乗っているのはファひとつ。二つの点が、その線を上下から挟んでいます。数えずに読めるまでの順番は、楽譜の読み方に書きました。

厄介なのは、一枚目の地図がまだ生きていることです。目が先に覚えたのはト音記号です。それも、考えなくても出てくるところまで。下から二本目の線は、見終わる前にソになっている。そこへヘ音記号が来て、同じ線をシだと言います。あとから来た答えも同じくらい正しいのに、毎回、先にいる答えを押しのけて出てきます。ヘ音記号で一拍遅れるのは、その分です。

左ハンドルの車に乗り換えた最初の日に似ています。ものはすべて予想どおりの場所にあって、左右だけが逆です。シートベルトを取ろうと右手が肩の上をさがして、そこには何もない。ギアに伸ばした左手はドアに当たる。車が難しくなったわけではありません。前の車が、まだ手に残っているだけです。

フルートなら、開く地図は一枚で足ります。ピアノは二枚を同時に、しかも片手に一枚ずつ開きます。同じ小節のなかで目が一、二センチ下がるだけで、答えが全部入れ替わる。

才能の差ではなく、回数の偏り

教本を開くと、最初の何ページかは音符が上の段にしかありません。左手はあとから入ってきて、入ってからも仕事が少ない。二小節のばすだけの低音。一段に一度しか変わらない和音。自分で選んだ曲でも、歌うのはたいてい右手です。

右手が一時間ぶんの旋律を読むあいだ、左手はゆっくりした和音を押さえているだけ。よくあることです。ヘ音記号に回ってくる回数は、その何分の一かです。読める速さは、会った回数に素直についてきます。めったに出てこない名前から薄れていくことは、なぜ音符の名前を忘れるのかに書きました。

気づきにくい近道もあります。音符が三つ縦に重なっているのが見えた時点で、手が勝手に形を作って、名前をひとつも読まないまま鳴ってしまう。音は合っています。ただ、そのページは読んだ回数には入っていません。

私に効いたのは二つだけでした。左手だけを、いま弾いている曲よりやさしいページで、毎日五分読むこと。それと、左手が伴奏で終わらない曲を選ぶこと。押さえるだけの和音が続くページは、何ページめくっても左手を読ませてはくれません。合っているかどうかを確かめるやり方は、ひとりで練習するときの確かめ方に書きました。

伴奏ではなく、もう一つの旋律

メヌエット ト長調 BWV Anh.114。『アンナ・マグダレーナ・バッハの音楽帳』に入っている、あの曲です。長くバッハ作とされてきましたが、いまはペツォールトの作と考えられています。調号はシャープ一つ(ファ♯)、4分の3拍子。

この曲の左手は歩きます。しかも多くの場面で右手と反対の方向へ歩くので、二本の線が離れていって、また寄ってくる。左手にもフレーズを作る仕事があります。ヘ音記号を「押さえておく和音」として通り抜けてきた人は、この曲で捕まります。下の段を、上の段と同じ速さで一音ずつ読む。そこまで要求してくる曲に、たいていはここで出会います。

両手がそろう日に、部屋の鳴り方が変わります。それまで鳴っていたのは、旋律と、その下で支えている何かでした。そろった瞬間に、二人になります。右手が上がっていくあいだ左手は下りていって、離れるだけ離れてから、同じところへ戻ってくる。三拍子は数えるのをやめて、勝手に前へ進みはじめます。不思議なもので、これは譜読みが追いつくより先に聞こえます。まだ左手を一音ずつ拾っているのに、その音が、もう一本の声として鳴っています。


書いたのはiOSアプリNotaluneの作者です。忘れた音符ひとつで練習が止まらないように作りました。手持ちの楽譜を撮影すると、音符の上に音名が出ます。読み取りは撮るたびに音部記号の確認から始まります。ここを取り違えると、そのページの音名が全部ずれてしまうからです。 自信が持てないときは、推測せず空白のままにします。ひとりで読みたくなったら、ワンタップですべての音名を隠せます。ほかのガイドは学ぶにあります · ご質問はsupport@notalune.comまで。